寄り添い支える教育の母体は
高度経済成長をけん引した繊維工業界
1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争とそれによる特需景気(「糸へん景気」「ガチャ万景気」とも呼ばれています)などが日本の経済復興の追い風となり、1956(昭和31)年、国民総生産(GNP)は戦前の水準を上回りました。同年、経済企画庁は経済白書『日本経済の成長と近代化』の結びで「もはや戦後ではない」と高らかに謳い上げました。前年の1955(昭和30)年には、高度経済成長の幕開けとなる「神武景気」がはじまり、1957(昭和32)年まで31か月、日本経済はうなぎ上りの成長を果たします。そして、1958(昭和33)年には、1961(昭和36)年まで42か月の長期にわたる「岩戸景気」がはじまりました。日本の実質経済成長は年平均10%を超え、欧米の2~4倍にもなりました。日本は、世界にも例のない復興・成長を実現したのです。10年ほど前にブームを巻き起こした映画『ALWAYS-三丁目の夕日-』に描かれた昭和30年代の世界が、そこにありました。
このような好景気に沸く日本経済において、中学校を卒業した若者たちは“金の卵”と呼ばれ、高度成長を支える労働力の担い手として引く手あまたとなっていました。高校への進学率が6割を切るような、いわゆる“集団就職”という言葉が生きていた時代。中学卒業者の有効求人倍率は3倍にもなっていたのです。中学を卒業した若者たちが、臨時列車(いわゆる集団就職列車)に乗って上京する姿がメディアを賑わせ、故郷を離れて都会に出る若者の心情を歌った井沢八郎の『あゝ上野駅』がヒットしたのもこの頃です。
この好景気の推進役を果たしていたのが繊維業界でした。当時、この業界は年平均成長率は10%前後をキープし、日本の総輸出額の4割近くを担っていました。まさに、高度経済成長初期におけるエンジンの機能を果たしていたのです。
そのような状況の中、業界内では、人材不足が問題化していました。特に中堅技術者の育成が課題となっていたのです。そこで、業界各社が自社内に教育機関を設けるという動きが出てきました。オーミケンシが1938(昭和13)年に男子校の近江実習工業学校、女子校として近江実践家政女学校を設立(この2校が合併して近江高校となっています)するなど、繊維工業業界は古くより社員育成に熱心だったという歴史的背景もあり、企業内に高校を設けようという流れが盛んになりつつありました。
『あゝ上野駅』井沢八郎
「集団就職」
繊維工業の中堅技術者養成を目的に創設された
全寮制二十四時間教育の大阪繊維工業高等学校
世間が「岩戸景気」に沸く1958(昭和33)年頃、日本紡績協会の会員企業(東洋紡や呉羽紡など)が集まって、“工場に教育が必要なのか”という議論が盛んに交わされ、実態調査なども実施されていました。また、各加盟企業は将来の優秀な技術者確保に不安を持っていた中、人材を自力で養成する機関の設立が模索されていました。そんな中、1960(昭和35)年、池田勇人首相による「所得倍増計画」が打ち出され、高度成長はさらに加速していきます。日本紡績協会加盟の約140社は、多年にわたって議論を重ねた後、繊維工業の技術者養成を目的として、1961(昭和36)年に学校法人大阪繊維学園を設立し、翌1962(昭和37)年には、産学一体となって全寮制二十四時間教育を実現するべく『大阪繊維工業高等学校』を発足させました。全国でも例を見ない体制の学校は、日本の教育界に新風を吹き込み、その活動を参考にしようと多くの見学者が学校を訪れました。
ここで、『大阪繊維学園創立30周年記念誌-30年の歩み-』に掲載されている初代理事長・原吉平氏(任期:昭和37年4月~同46年4月)の「学園設立の弁」を紹介いたします。
学園創立の弁
大阪繊維工業高等学校は日本紡績協会加盟の会社一四〇社(当時)が相計って造った、繊維工業の技術養成の学校である。この計画は私が日本紡績協会の委員長時代の昭和三十六年に設立の話が決まった。ことの起こりは、当時紡績協会の傘下にあった日本綿業技術研究所の拡大発展を図り、その基金の有効な利用を考えようというのであった。
一方、私としては当時の教育界の風潮に非常にあきたらない気持ちを抱いていたのと、業界としても将来の優秀な中堅を確保するという点で不安があったので、この際、人材を自力で養成する機関として本校の設立に踏みきった。良識のある立派な市民であるとともに、革命的な技術の更新期にあたり、これに対処できる優秀な技術者の育成を目標に定めたのである。
そのため、本校は全寮制をとり、教師もすべて校宅に入居させ、二十四時間教育による人間形成を主眼とした。この精神はさらに通信教育による向陽台高校への設立へと引き継がれ、現行教育制度への反省を促しているのである。
高度経済成長期という戦後日本における輝かしい時代に産声をあげた『大阪繊維工業高等学校』。それは、来るべき『向陽台高等学校』創設の礎となる存在でした。まさに、新しい学校教育の夜明け前。『大阪繊維工業高等学校』の開校は、教育界に間もなく陽光が降りそそぐことを予感させてくれる画期的な出来事でした。
当時の関係者の思いを『向陽台高校事始め 勤労少年教育にかけた青春』から拾ってみましょう。これは、学園設立に尽力された大田通夫氏(オーミケンシ前・取締役社長、現・相談役(当時))の「高校導入の頃の思い出を語る」(2002年8月23日、大阪の綿業倶楽部で開催)という座談会での発言です。
日本の建て直しは、子供の教育にあり、再教育が重要だと、総理大臣に言いたいね。若い間に人間としての基礎力を作っておかないといけない。
大阪府は特色のある教育をやるような政策を今、出していっているが、教育界に刺激を与えるようなやり方をどんどんやればいいのではないか。
知育・徳育・体育と昔から言われてきたが、徳育の面がだめだね。知識は与えるが知恵を与えない。今、日本で教育と口では言っているが、政治家の姿を見ても、どれだけ熱意があるのだろうか。
三十年以上も前の紡績協会や紡績各社のほうが教育をもっと真面目に考えていたと思うね。「企業は人なり」と松下幸之助氏が言われたが、教育が第一だよ。学校教育も大事だが、何よりも家庭教育が大事だね。今、家庭の崩壊が日本をだめにしている。
『大阪繊維工業高等学校』に注がれた、このような思いは、今も『向陽台高等学校』に、DNAとして脈々と引き継がれているのです。