写真左から、大田、入江、安田、片岡、滑川の各氏
座談会2
『向陽台高校事始め……勤労青少年教育にかけた青春……』掲載
☆ぜひとも高校卒業の資格をとらせたい
滑川 創業間もない頃の社長で日本産業界をリードした宮島清次郎という大経営者がいたが、
この人が質実剛健と教育重視の社風を作られ、日清紡に四・五年働いて故郷に帰った時に、
人間ができて帰ってきたと言われるような子に育てたいという教育方針を徹底しておられた。
私は山形市の洋服屋の一人息子で、八人兄弟の中で男一人だから、
親との話を通ずるようにしたいという気もあって繊維業界に就職したが、
その教育方針を知って、日清紡は素晴らしいと思った。
その後、日本経済の発展で労務事情が激変して「金の卵時代」となり、
北海道から沖縄まで年がら年中走り回って、
生徒の家庭への訪問や職業安定所、中学校などを巡ったが、
そのような時、子供を、給料を貰うだけでなく、立派に育てて返してくれるかと言われた。
そして最後には、高校卒業の資格がとれるようにはならないのかという話が必ず出てきた。
これは何とかしなければという思いでいっぱいだった。
だから、向陽台高等学校の導入が決まった時は本当にうれしかった。
滑川氏
大田 女子従業員の定着管理が、やってもやってもできなかった。
向陽台高等学校ができた時、これでがんばろうと集中した。
1964年(昭和39年)に工場長になったが、
各社が連続児童紡績機などの設備投資をしなければならないとやっきになっている時に、
校舎を建てた。教育は本当にやりがいがあると思ったよ。
片岡 会社がなぜ教育のために三億円も出すのだと日紡などは言っていたが、
米百俵と同じで、長い目で先を見れば、教育への投資は安いものだよ。
入江 向陽台高等学校に初年度に入学した生徒な(ママ)中には、過年度生も多かった。
自宅から通学できる高校もなく、また、家庭の経済状況のために進学できなかった子もいて、
優秀な子が多かったし、熱心だった。
滑川 向陽台高等学校のシステムを導入し、第一期生を募集した時に、
三年ぐらい下がって入学した子も多かった。
それまでは高校卒の資格をとる手段がないままに、
工場で勤務し各種学校で学んでいた子達が、
二つ三つ年下の子達と一緒になって高校の勉強をしはじめた。
彼女らの、やろうという意欲が、それぞれの学園の基礎を作ってくれたのだと思う。
安田 そのうちに、いろいろな生徒の要求に適合するようにと、
本校では、教育課程を八つまで考えた。
☆逆境の時期もあったが、皆で支えあった
片岡 通信制高校の教育体系が整ってくると、
向陽台システムを真似たものや、新しいものが次々に工夫されて、
隔週定時制高校などもでてきた。
初めの頃は、日経やNHKなどにたたかれた。世に認められるようになったのは
、向陽台高等学校という名前に変わってからだね。
大田 そうだった。向陽台高等学校も逆境の時期があったね。
大垣市に三部制の女子高校ができて、大垣紡績はそこに行った。
鐘紡はNHK学園、オーミケンシは向陽台高校へ行っていたが、
あんなのは高校ではないと宣伝されて、苦しい時代だった。
中学校の先生方が何年か三校を回っているうちに、
オーミが一番健全だと評価が定着していったよ。
安田 まわりから袋叩きにあったり、
真似をするものも出て来たり、大変だった。
通信制高校は各府県に一校、それも大抵は名門校にあった。
そういう学校の先生が全通研で
「向陽台高校の教科書はインチキだ。こんな内容のものが高校の英語の教科書か!」
などと名指しで言われた。
一般的に見ても高度すぎる内容の全通研の学習書を、
向陽台の生徒の実態を考えて使用しなかったことへの反発であった。
やがて、生徒のほうからも、他の通信制生徒の教科書と違うということで
不満の声があがり、一般高校の教科書を採択したが、
学習書は独自のものを作って、能力に適応した学習をさせた。
能力適応主義という学校方針を随分説明したものだ。
入江 生徒達に高校生としての誇りを持たせるためにはどうしたらいいのだろうと考えた。
まずは制服・生徒手帳・校章バッチ、更には校旗・校歌など形も必要ということで、
特に、卒業生が出るまでは、本校と一緒になってその対応にあたった。
入江氏
大田 工場の主任達も、それぞれが生徒達の父兄になって、
授業参観などに出たり、自分の社宅へ生徒を呼んだりして、
食事やお菓子を出して雑談をしながら、支えとしての役割を果たしてくれた。
すべて時間外勤務でね。
入江 富士紡でも、第二父兄ということで
主任が親代わりに生徒とのコミュニケーションを図ったりした。
滑川 日曜日も、学園行事があって出勤し、休みがなかった。
一度もお父さんに遊びに連れていってもらえなかったと、我が子に大きくなってから言われた。
でも生徒達にはうれしいことだったはず。
学園の先生だけではなく、職場の主任にも親のような目で見守られているのだから。
大田 その頃の学園や労務担当者は、サラリーマンだが、教育に熱意があって、
人生意気に感じていたね。学園に力を入れることが、
やがては経営の効率化を図ることにつながっていった。
滑川 生徒達は、工場の中でもコマねずみのようにくるくると
よく働いて、勉強して、本当に一生懸命だったね。
この子達のためにも、がんばって働きたいと思った。
思い起こすと、女子従業員の労務・寄宿舎管理が根幹で、
寮生即学園生徒は寮の一角の教師室に住む教員兼舎監を先生と呼んで親しみ、
寮入口の管理室を教務室と呼んで始終親しく出入りし、
まさに全寮制高校そのものだった。
生産を担う工場の労務管理はまさにその基盤の上に安定していた。
その蔭には寝起きを共にした若い先生達の情熱や苦労があって、
それを可能にしたわけだ。
☆定通併習の発案者は初代村上校長だった
入江 大阪繊維工業高等学校。を設立するにあたって、
村上正己校長や寮の舎監をされた国語の藤本浩一先生をはじめ、
優秀な教育者が揃っていた。
村上校長は、全人格教育をやらねばならないと、いつも言われていた。
これらの先生方があってこそ、向陽台高等学校もうまく運んだのではないかと思う。
安田 全人格教育という視点から、学習評価の仕方にも工夫があった。
それぞれの生徒のどこかにさまざまな能力があって、
それを伸ばすべきだというのが、村上校長の教育方針だった。
点数ではなく、真面目さや努力を重視した。
片岡 定通コンバイン説も村上校長の発案だった。
公立の定時制や通信制の高校の卒業生が10%程度だった。
だから、せめて半分は卒業させたい、そのための方策が定通併習方式だった。
滑川 浜松で高卒資格を持って一期生が卒業するときは、
男泣きしたいほどの感激だった。
日清紡の大半の工場が向陽台高等学校に加盟していたが、
高校卒業の資格を持った子を一万四十三人も育てた。
しかも、98から99%の出席率・出勤率であった。
高校卒業の資格がとれることで、子供達に自覚を持たせ、励みになった。
今日の座談会に出席するはずだった日清紡の元・専務取締役だった古賀さんからも、
「高卒の資格が取れたことを一番感謝している。深甚の謝意を学校の皆さんに伝えてほしい、
是非お礼を言ってもらいたい」と言われてきたので、謹んで感謝申し上げる。
☆卒業式では、皆が泣いた
入江 向陽台高等学校の卒業式は最もクラシックな式でしたね。
当時は、すさんだ公立高校では式の粉砕など、式場での暴力が新聞面を賑わわせていた。
「いったい彼らは高校で何を学んだのか。なるほど知識は一杯学んだろうが、
そのもとを誤れば、知育は凶器である。」と村上校長は述べられていた。
そのような世情の中で、働きながら学んだ向陽台高等学校の生徒達は
卒業の意味をしっかりと捉えていた。
だから、卒業式では皆泣いた。苦しんで勉強したから、生徒も先生も保護者も皆が泣いた。
滑川 徳育の伴わない知育が横行し勝ちなのが、今の日本ではないか。
向陽台高等学校の目指す教育こそ、智慧の教育・真の教育で、
働きつつ学ぶ苦労をした人達だからこそ、卒業の真の喜びがあったのだろう。
大田 卒業した生徒の家庭を訪問したとき、お仏壇に灯明をあげて、
卒業証書が飾ってあったのを見たが、これは親が卒業証書に誇りを持ち、
感謝の思いの現われだと感じ、学園の精度に自信が持てたね。
それにしても、開校して三年が経っても独立した高校としての認可が得られなかったので、
四年すれば短大に進学できると話してきた一期生に約束が果たせないのではと、
正直言って心配したよ。
しかし結果は、向陽台関係者の努力が実って第一期生が卒業するまでに
向陽台高等学校として卒業の資格が与えられるようになり、
近畿大学附属豊岡短期大学と連携ができた時にはほっとした。
片岡 それでも、初めは商学部しか連携できず、
幼稚園は文部省、保母は厚生省というように管轄が違っていて認可が難しかった。
入江 高校卒業にあたって富士紡では、
社長表彰や短大入学制度や国内留学制度、本社や大阪への高卒採用などを考え、
後に続く生徒達に高卒として自他共に認めてもらえるのだということを認識させた。
片岡 いずれにしても、当時は紡績では、
経営者が思い切って教育にお金を使ったし、出すお金もあったということだね。
☆若いうちに人間としての基礎を
大田 日本の建て直しは、子供の教育にあり、
再教育が重要だと、総理大臣に言いたいね。
若い間に人間としての基礎を作っておかないといけない。
大阪府は特色ある教育をやるような施策を今、出していっているが、
教育界に刺激を与えるようなやり方をどんどんやればいいのではないか。
知育・徳育・体育と昔から言われてきたが、徳育の面がだめだね。
知識は与えるが知恵を与えない。
今、日本で教育と口では言っているが、政治家の姿を見ても、どれだけ熱意があるのだろうか。
三十年以上も前の紡績協会や紡績各社のほうが教育をもっと真面目に考えていたと思うね。
「企業は人なり」と松下幸之助氏が言われたが、教育が第一だよ。
そして、学校教育も大事だが、何より家庭教育が大事だね。今、家庭の崩壊が日本をだめにしている。
向陽台高等学校全盛期の頃に卒業していった生徒達は、
今はもう五十五~六〇歳代に入るのではないかな。もう孫がいるかもしれないね。
若い時に自分で苦労して学んだことが、その後の人生でどう役に立ったのだろうか。
その頑張りの魂は、きっと今も生きているだろうと思うが。
安田 初期の頃の思い出話から、
これからの日本の教育についてまでお話いただいた。
向陽台高等学校の卒業生達も、今は健やかに何事にもくじけない精神力で
生活してくれていることを信じて、今日の座談会を終わりたい。
ありがとうございました。
座談会「高校導入の頃の思い出を語る」
出席者
大田 通夫(オーミケンシ 前・取締役社長、現・相談役)
滑川 昌一(日清紡績 元・針崎工場長)
入江 稔(富士紡績 元・社長室長)
片岡 衞(大阪繊維学園・学園長)
司会
安田 英夫(元・向陽台高等学校校長)
《2002年8月23日、大阪の綿業倶楽部で開催》
※本座談会は、2002年11月20日に発刊された『向陽台高校事始め……勤労青少年教育にかけた青春……』に掲載された「座談会」をデジタルデータ化して再編集したものです。縦書き文章を横書き文章に変換し、各段落を再構成しています。また、年号などの漢数字をアラビア数字に置き換えるなど、若干の改定を行っています。