高校導入の頃の思い出を語る①

写真左から、大田、入江、安田、片岡、滑川の各氏

座談会1

『向陽台高校事始め……勤労青少年教育にかけた青春……』掲載

出席者
大田 通夫(オーミケンシ 前・取締役社長、現・相談役)
滑川 昌一(日清紡績 元・針崎工場長)
入江 稔(富士紡績 元・社長室長)
片岡 衞(大阪繊維学園・学園長)
司会
安田 英夫(元・向陽台高等学校校長)
《2002年8月23日、大阪の綿業倶楽部で開催》

安田 向陽台高等学校の初期の記録については、既に『十周年誌』というものが発行され、
その後、『二十周年誌』『三十周年誌』などもあって、学校沿革史的なものはあるにもかかわらず、
今回『向陽台高校事始め』を発行することにしたのは、向陽台高等学校導入当時の、
企業の労務・学園、生徒、学校の実態をぜひ残しておきたいという片岡学園長の思いがあったからである。
今日は、オーミケンシ、日清紡績、富士紡績の皆さんにもお集まりいただいた。
当時は工場労務管理の最前線におられ、学校開設にご努力いただいた方々ばかりである。
では、まず初めに、学校システムを導入しなければならなかった紡績の実情等から、
お話をすすめていただきたい。

☆工場に教育は必要なのかという議論から

片岡 日本紡績協会の労務課の仕事として、1958年(昭和33年)頃から、
東洋紡や呉羽紡の人達と共に、工場に教育が必要なのかということで議論していた。
そんな中で、やはり教育は必要だということになり、
では、各社一工場をまわって実態を調べようということになった。
それが教育専門委員会の始まりで、現場の労務課長らと議論を戦わせた。
その頃になってやっと学校形態の話が出てきた。
紡績が、二交代制の勤務形態をとり、遠隔地からの従業員募集をした段階で、
工場寄宿舎の中における女子従業員の生活管理が、大変重要な課題となっていた。
大田 一日二十四時間の生活の中で、勤務以外の時間を寄宿舎の中でどう有効に使わせるか
ということに頭を悩ませていたね。

大田氏

片岡 各工場では、お茶・お花などを教えることが主流だった。
そんな中で、倉敷紡では家庭寮を作り、数人ずつが生活費をもらって
一般的な家庭生活をするという実験的システムを実施していた。
日清紡は既に学園を作っていて、紡績の中では当時から前の方を進んでいた。
滑川 東京亀戸の本社工場で女子学校教育を開始したのが1918年(大正7年)。
1934年(昭和9年)当時、日清紡浜松工場長の能登谷さんは教育に非常に熱心で、
大規模な松栄高等学園を作っておられた。
浜松には従業員が二・三千人いたが、その頃から教育に取り掛かったのだから、早かった。
入江 富士紡では、1954年(昭和29年)文部省国立教育研究所に委託し、
女子従業員を対象とする『教科書』を作成して、学園教育を充実させようと努力していた。
大田 オーミケンシの先代経営者の夏川嘉久次氏は1938年(昭和13年)
企業内に教育のため、男子には近江実習工業高校、女子には近江実践家政女学校を設立された。
戦後の新しい学制改革により、この二校が合併し、彦根市で近江高等学校として発足した。
今日、春夏の甲子園での高校野球大会に滋賀県代表として六回も出場し、昨年は準優勝をした、
あの近江高校の前身はオーミケンシの会社の学校だった。
それにしても、先輩の経営者にはえらい人が多かった。
1932年(昭和7年)には社内に「教育部」が設置され、いち早く青年学校を作った。
教育をやかましくいう今の時代でも、人事部や労務部はあっても、
「教育部」のある会社は少ないと思うが。
片岡 専門委員会の議論の中で、学校形態にしなければだめだということで、
高校認可をとってやりはじめた工場もあったが、解散するときには、
学校つまり工場の財産を寄付しなければならないということになっていて、
寄付行為という点でこれでは困るということになった。
それなら、通信教育を考えるしかないということになったが、これが難しかった。
大阪繊維工業高等学校の設立に関しては、紡績会社の社長会議の議事にあがった。
だから、議決してお金さえ出れば、すぐに学校形態を作ることができた。
大阪繊維工業高等学校の、全寮制システムや実習を取り入れるというようなことなど、
モデルはいっぱいあったからね。
紡績以外の産業界でも二年制の企業内高校ができていて、
丸善や積水、松下、関電など多くがこの方法をとっていた。
各企業内ではそれで高卒の扱いをしたが、一般社会では通用しなかった。
紡績の社長会議でも、二年制のものでいいではないかと議論があったが、
学校教育法に基く学校でなければ絶対にだめだと押し切って、三年制の高校になった。
卒業すれば高卒の資格がもらえるようにするという事で頑として押し切った。
それにしても大阪繊維工業高等学校の一期生は優秀だったね。
五段階評定でオール五の生徒ばかりで、向学心に燃えていたから、
将来の大学進学も視野に入れて二年目には普通科をつくったよ。
そのうちに、女子労働者は「金の卵」とか「ダイヤモンド」とか言われ出し、
採用も難しくなり、定着も芳しくなくなってきた。
紡績で男の学校を作ってどうする。
従業員の大半を占める女子の学校をなぜ作らないのかと言われた。

片岡氏

☆新しい教育形態を創り上げていく苦労

片岡 この向陽台高等学校設立の声は、現場から出てきて、
労務委員会のほうから議事にあがってきた。
だから、お金の権限もなく、その中身を四苦八苦しながら検討していた。
向陽台高等学校の場合、基準になるものが1947年(昭和22年)にできた「学校教育法」しかない。
本当に、創り上げていくという苦労はあったね。
向陽台高等学校の設立には、学校という建物や先生を準備するだけではなんともならないものがあった。
女子従業員教育という共通点はあっても、各会社独自の伝統教育システムがあったり、
あるいは何もなかったり、その違いをある程度一つにしながら、
教育形態を作っていくという難しさがあった。
安田 通信制高校は、一府県に一校ということであったから、
これでは全国に存在している各工場の従業員向けにはならない。
転勤があればその学校での学習を続けられないことになる。
各社でも、工場によって状況が違うということになり、管理も大変煩雑になる。
片岡 やはり、全国版でやらなければどうにもならなかった。
そんなときに、NHK学園高校が広域を認められた。
それなら向陽台高等学校もやれると考えたのが発想の原点だった。
大田 1960年(昭和35・36年)頃、当時大垣工場の事務部長だったが、
労務管理の中核・目標になるものはないかと模索していたときであった。
出勤状況が悪いから、女子寮に行って部屋まわりをして、
探しては現場に出させるのが私の毎朝の日課だった。
部屋に行っても、いないのだよ、すでに外出していて。
それで、お茶・お花ではもうだめだと、
今ある工場内教育施設を各種学校にしようということで申請し、
1962年(昭和37年)に認可をとった。
しかし、入学して籍はあっても、生徒は学校に出てこない。
よい先生にやっと来てもらっても、生徒が一人も出席せず、大恥をかいたこともあった。
そんな時だった。片岡氏と安田氏が尋ねて来られたのは。
忘れもしないが、昭和37年の12月、クリスマスの日で、雪が降っていたよ。
もう帰る時刻だったので、駅前で夕飯を食べながら、学校の話を聞かせてもらった。
女子の教育について、高校卒の資格をとれるようにしたいという話で、
それはもう、神様か仏様が来たような気がしたよ。
片岡 女子従業員と呼び方を変えてもコンプレックスは消えない。
彼女達は、工場から出かけて帰ってくる時も、工場の前のバス停では降りない。
紡績の人間だとわからせないために、一つ手前で降りてテクテク歩いているのだ。
中卒を高卒にして彼女達を家に帰してやりたいと思ったよ。
また、時代も、いろいろな資格をとろうとすれば高卒の資格が必要となってきていた。
労働組合でも同じように考えて激論を交わしていたので、
高校制度導入には協力してきた。
安田 開校にあたって、現場の生徒達のレベルとか状況が分からないので、
授業などを実験的にやってみたいと考えていた時、
実験スクールの協力を申し出てきたのが、富士紡だった。
生徒達の真摯な態度と実態を見て、何をやるべきかを掴んだ。
学習書は生徒の実態に合ったものをつくるべきだということ、
学園に先生がいることで、生徒の阻害された孤独感を補うことができるのではないかということなど、
本校も学園の先生方も情熱を持ってやろうとした。その意気込みは素晴らしいものだった。
入江 富士紡は、早期に社内で徹底的な討議の末、
全社的に大阪繊維工業高等学校通信制で是非ともやりたいと初めから決めていたが、
他社はすでに地域の高校と連携してやり始めていた。
片岡 初めから向陽台高等学校でやろうと言ったのは、富士紡と日清紡だった。
東洋紡は、三重県の四工場は四日市高校での二部制に行っていたし、
鐘紡はNHKの通信に行っていたね。

高校導入の頃の思い出を語る②に続く

※本座談会は、2002年11月20日に発刊された『向陽台高校事始め……勤労青少年教育にかけた青春……』に掲載された「座談会」をデジタルデータ化して再編集したものです。縦書き文章を横書き文章に変換し、各段落を再構成しています。また、年号などの漢数字をアラビア数字に置き換えるなど、若干の改定を行っています。


Author: koyodai-tsushin

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